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ジュイの黄金時代

 ユエは、ルイ16世の時代、動物画家として王立アカデミーに認められ、ロココ様式を代表する画家フランソワ・ブッシェを彷彿とさせるパストラル画(※1)を得意としていました。装飾デザインも手掛ける彼は、オーベルカンフの絶大な信頼を得て、ジュイ工場最盛期のデザインを任されます。オーベルカンフの完璧を追求する姿勢と流行を敏感に察知する力、ユエの美しく繊細なデザイン、特に動物たちの生き生きとした動きと表情、この二人の才能があいまって、人気のパストラル柄に加え、当時話題の出来事、流行のオペラや小説をテーマにした数々の人物柄の傑作が18世紀末から19世紀初めにかけて生み出され、ジュイ工場は黄金時代を迎えます。

※1 18世紀ロココ時代に愛された題材、のどかな田園風景の中、農作業に勤しむ人々や語らう男女を描いた風俗画。

お城の庭

『お城の庭』1785 銅版 トワル・ド・ジュイ美術館

この布には、気球の柄はないが、実は、もとは気球の飛行をベルサイユの庭園で見学するマリー・アントワネットをはじめとする人々を描いたジュイ。気球の初飛行は当時大きな話題となり、気球の柄の生地がたくさん作られた結果、飽きられるのも早く、オーベルカンフはユエに気球の部分だけ犬の柄に変えるよう指示し、新たな柄として販売された。

新しい時代、新しいスタイル

 フランス革命を経てナポレオンの時代に変わると、ユエのデザインも18世紀の華麗で軽やかなスタイルから、ナポレオン好みの古代ギリシア・ローマへの憧れを反映した古典主義スタイルへと変化します。流行に敏感なオーベルカンフからの依頼を受け、神話を主題に幾何学模様を使ったより建築的なデザインと濃褐色や紫など深い色味も使い、より落ち着いた新古典様式のジュイを生み出しました。

狼と羊

『狼と羊』1805 銅版 トワル・ド・ジュイ美術館

ディアナとヴィーナスという神話の女神とともに、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『狼と羊』のシーンが描かれている古典主義スタイルのジュイ。良質な銅版は高価なため、だんだんと小さなサイズを使用するようになり、オーベルカンフはユエにサイズを細かく指定してデザインを依頼した。銅版が小さくなると、柄の反復幅が小さくなり、頻繁に現れるつなぎ目を目立たなくするために、背景は無地から格子や縞や鱗柄などの地模様へと変化した。オーベルカンフの経営者としての側面と、それに見事に応えるユエの才能を垣間見れて興味深い。

 こうして黄金コンビが作り出したジュイ工場最盛期1805年頃には、1300人を超す職人や労働者が働き、ビエーヴル川周辺一帯を占める敷地に色とりどりの布地が乾燥のために広げられた様子は花畑のようだったといいます。オーベルカンフ夫妻はベルサイユ宮殿でマリー・アントワネットに謁見を許され、ナポレオンは二度ジュイ工場を訪れ、自らの手でレジオンドヌール勲章をオーベルカンフに授けました。

オーベルカンフの工場

『ジュイ・オン・ジョザスのオーベルカンフの工場』1807 ジョン=バティスト・ユエ

ナポレオンがオーベルカンフに勲章を授ける光景が、ジュイ工場の建物、敷地に拡げられる布の花畑をバックに描かれている。

​ 「あなたと私はイギリスと戦っている。あなたは、あなたの事業で、私は私の武器を使って。しかし、あなたの方がうまくやっていますね」とまで、ナポレオンに言わしめたオーベルカンフの工場でしたが、ユエの死、ナポレオンの失脚、オーベルカンフの死、度重なる政治変動、流行の変化、技術革新により安価で大量生産されるコットンプリントの流布による競争力の低下など、さまざまな要因が重なって1843年、一代でフランス第三の工場にまでなったジュイ工場は、その輝かしい歴史の幕を閉じることとなります。しかし、工場閉鎖後も、トワル・ド・ジュイが消えてなくなることはありませんでした。

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