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人々の憧れが生んだ布、トワル・ド・ジュイ

18世紀後半にフランスで生まれ、マリー・アントワネットを魅了し、ナポレオンを感嘆させた布。今日なお世界中で愛され続ける魅惑のフランス伝統生地トワル・ド・ジュイ。

 トワル・ド・ジュイという呼び名は知らずとも、のどかな田園風景の中、牧人や農夫、語らう男女、狩りや季節の行事を楽しむ人々と動物たちが単色の濃淡で描かれた美しい布に心奪われた人は多いのではないでしょうか。

トワル・ド・ジュイとは?

アメリカの独立

『アメリカの独立』(一部)1784 J.=B.ユエによるデザイン 銅版プリント トワル・ド・ジュイ美術館

 トワル・ド・ジュイとは、フランス語で「ジュイの布」、「ジュイで作られた布」の意。つまり、狭義には、18世紀後半から19世紀半ばにかけ、パリ近郊の町ジュイ・オン・ジョザスの工場で作られたプリント生地のことを指します。今日、ジュイというと、上の写真のような単色濃淡(カマイユ)で描かれる田園風景の中の人物柄(パストラル)が最も親しまれていますが、当時のジュイ工場では、植物柄、中国柄(シノワズリ)、幾何学模様からストライプに至るまで、三万点にも及ぶ多種多様な柄がプリントされていました。その美しい布は、世界17の都市に輸出され、ヨーロッパ中の宮廷に納められていたといいます。まさに一世を風靡した布―トワル・ド・ジュイを興したのは、弱冠二十歳でパリに出たクリストフ=フィリップ・オーベルカンフ。ドイツ生まれの捺染職人です。

トワル・ド・ジュイ誕生の背景

​ なぜ、この時期にこの布が生まれたのか、それを理解するには、一世紀前に遡らねばなりません。17世紀後半、フランスでは、東インド会社がもたらす軽くて美しい、エキゾティックな動植物が描かれたコットンプリント・インド更紗(アンディエンヌ)に人々は夢中になり、すさまじいブームとなります。これに危機感を覚えた国内の麻・絹・毛織物業者からの強い要請により、ルイ14世は、1686年インド更紗の輸入、模倣品の製造、使用・着用の完全禁止令を出すのでした。しかし、密輸や違法製造はなくならず、フランスの捺染技術は近隣諸国に大きく後れをとり、ルイ15世の時代には、王の愛妾ポンパドール夫人自らインド更紗を愛用する始末。ついに、1759年、禁止が解かれます。それは、まさにオーベルカンフがパリに出た翌年のことでした。つまり、オーベルカンフがジュイ・オン・ジョザスの地で捺染工房を興す時点で、すでに市場は十分過ぎるほど熟していたのです。

 

​ 独立を夢みていたオーベルカンフは、セーヌの支流ビエーヴル川という美しい水と広い敷地、最上顧客であるベルサイユにほど近い、パリから20キロ南のジュイ・オン・ジョザスに落ち着きます。1760年5月1日日曜日、彼は自らの手で布にプリントを施します。トワル・ド・ジュイ工場誕生の瞬間でした。

オーベルカンフのジュイ工場と人物柄の誕生

手押し車の中国人

『手押し車の中国人のジュイ』 1760 木版 トワル・ド・ジュイ美術館

最初の住まいMaison du Pont de Pierre(現在はジュイ市の音楽学校)にてオーベルカンフが自らの手で木版プリントしたと思われるジュイ工場初期の布。

 インド更紗への強い憧れから始まったジュイ工場の生産の中心は、オリエンタルな植物柄やヨーロッパ好みの洗練された植物柄の木版プリント生地でしたが、研究熱心で進取の気性に富むオーベルカンフは、たびたび産業革命先進地イギリスを訪れ、洗練されたデザイン、新しい技術を積極的に吸収し、工場創設より10年後には、木版に加え、銅版によるプリントも導入し、今日のトワル・ド・ジュイの代表柄=単色モノクロームの人物柄を生み出します。

​ その当時、生産の8割を占める木版プリントの生地は、ドレスやスカート、コート、スカーフなど衣服や室内装飾に使われ、一方、コストも時間も労力もかかる銅版プリントによる人物柄の生地は、壁に張られたり、ベッド装飾など主に広い面積で使用されました。おそらく、オーベルカンフは、人物柄のジュイをゴブランやボーヴェのタペストリーと同様の装飾アートとして位置づけていたのでしょう。植物柄のデザインは工場専属デザイナーに任せていたのに対して、人物柄の下絵は一流の画家たちに依頼しました。その代表がジャン=バティスト・ユエ。ジュイの人物柄は、ユエの登場とともに、目を見張る美しさを備え、美術品の域に達したのでした。

工場の仕事
工場の仕事

『ジュイ工場の製造工程』1783 銅版 トワル・ド・ジュイ美術館 

木綿生地の棹打ち、。。。木版作業、銅版作業、オーベルカンフに挨拶する職人たち、自らの髪の毛で作った筆で色入れする女工たち。当時の作業工程が詳細かつのどかに描かれていて、史料としての価値も高い。ユエによるジュイ工場のための初めてのデザイン。「王立」工場を名乗ることを許された記念に作られたジュイ。亡くなる1811年まで、ユエは常にジュイ工場のメインデザイナーとして活躍した。

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